昭和49年03月06日 朝の御理解



 御理解 第69節
 「信心は見易いものじゃが、皆氏子から難しうする、三年五年の信心ではまだ迷い易い、十年の信心が続いたら、吾れながら喜んでわが心を祀れ、日は年月の始めじゃによって、その日その日のおかげを受けて行けば立ち行こうが、見易う信心をするが良いぞ。」

 三年五年の信心では迷い易いと、仰せられてある所に信心は見易い者でなくて、難しい事が解ります、だからその難しいと云う言葉では当たらんかも知れんけれども、その難しい所を通り抜けた先が見易いのです。三年五年では、まだ迷い易いね、初めから見易いとはだから思はれない、その迷いが取れてね、心に一心と生神金光様を称えさせて貰うて、行く信心が出来れば、その日その日が必ず立ち行く事になるのであり、そう言う信心が十年も続いたら確かに我ながら我が心を、祀れれる。
 我ながら自分の心が何とも言えん、有り難さにひたらして頂けると云うか、我が心が自分で拝めれると言う事になると思うですね。だから此の三年五年の信心では、迷い易いと仰せられておるその三年五年がね、人に依っては十年も十五年もいや一生その三年五年を信心では迷い易いと言う所を、通っている人が沢山ある事ですね、それでは何時まで経っても、我ながら我が心を祀れと言う事にはなって参りません。
 昨日は壮年部会でしたが、色々有り難いお話が出ました中に、久富先生がこの頃親先生私は、此の五つの願いと言う物を、もうあのー願いを逆さまから一番終いの方から、お願いをしとります、中々素晴らしい事ですね或る意味でね、神願御成就天地の親神様の、御神願が成就する事の為に、どうぞ一番の健康のおかげも頂かして下さい、家庭の円満も願う、子孫繁昌も家繁昌も願う。日々の御用が御用になります様にと云う願いもする、だから一番最後の所を先に願うとこう言う訳です。
 久富繁雄さんが発表しとられました、久保山先生ちゅってからはチョイト偉い先生ではありましたよと言われました、私が初めて椛目に御神縁を頂いた時に、久富さん此処にお参りするならまず神様の実体を掴みなさいち云わっしゃった。成程今でもまだ掴めてはおりませんけれどもその一言がです、いろんな問題をを通して、之は自分が神様の実体が解って居ないからの事だと、言う風に解らせて貰うと云う意味にの事を云っとられますね、少しづつ神様と言う方がどう言う方かと言う事が解るね。
 願えば聞いて下さり詫びれば許して下さり、お礼を申し上げれば神様が有頂天になっておかげを下さるかの様に見える程しのお方だ、天地の親神様て大体そんな方なんです。願えば、おかげを下さり、詫びれば許して下さり、心からの喜びを以て、御礼を以てすると、もう神様の方がもう本当に、それこそ調子に乗って下さる様にして、おかげを下さる神様、そう言う神様であるのにもかかわらず、詫びても願っても、又はお礼を云うても、おかげが頂けんと云うのは。
 是はどう言う様な事かそのお詫びがお詫びになっていないのであり、お礼がお礼になっていないのであり、願いが願いになっていないからだと言う事になる、その辺の所を日々の生活の中から、まあ色々に体験しておられる訳です久富さん。初めの間はどうぞお百姓さんですから沢山野菜を作られます市場に出されます、どうぞその神様一番高い所に出さして下さい、どうぞ野菜が高く売れます様にと言う様な、願いもして来ましたけれども、この頃ではねそういう願いを致しません。
 所謂お願いと言う事は致しません、それでも神様がやっぱり、久富さんあんた方はふが良かのと皆んなが云うて呉れる程しに、高い所へ高い所へとおかげを頂いておると云う、発表なさいました、久富さんあんたの信心は円熟期に入りよると言った事でしたね、円熟期ちゃどげな事ですか、もう心が円満に丸うなってしもうてから、もう云うならば熟して行きよる心が熟しておる、もう成る事がなった、成る事がもう成就して行きよる、成って行きよる、事ですよと云うて話しました。ね。
 その後に金光様の御信心と云うのはね、大体えんじゅく期なんてものは、あってはならないんだと、それは一つの信心の過程として、久富先生が云はれる五つの願いを反対の方から願うて行くと言われる、是はね最近合楽で云はれる願いの信心、けれども本当に一番始めに、神様あなたの願いが成就するために、とうぞ健康も下さいお金も下さい、家庭円満も下さいと云いよるけれども、それはちょうど神様をだまくらかしよるごと有るよと私が話した事でした。
 如何にも神様ねあなたの願いが成就する事の為に、お金も下さい健康も下さい、成就して先に果たして、神願成就のお役に立せて頂けるか、危ないもんだそれは願う時には皆んなが云いますよ、それこそ千の燈籠も差し上げる様に云うて願う、ね。苦しい時ね言うなら家内が出産が始まった、少し難産それで一生懸命拝んだけれども、産まれんそこで神様にそのお灯明を上げてからお願いをした、どうぞどうぞ安産のおかげを頂かして下さい、どうぞ早く産まれます様にと云うて願った。
 その代わり、安産のおかげを頂いたら、千の燈籠を上げます様にと云うて、お願いしよる、それで、苦しみながら嫁さんが、そげなことあなた、神様にお願いしてから、千の燈籠も、あなた上げ切りばし、するごつそんなこつ云うちからち云うて、だまって早う産めと、今神様をだまくらかしよる所だと、いうたと言うね、本当に神願成就の事の為に、と云うのを一番口に云うておるのは、神様が一寸向きを変えなさる位な、私は響きを感ずる位の事だろうと思うですね。
 けどもなら果たしてです、その位の力でね、例えばお前の願いが成就した位の事で、お前が本当に神様のお心に添い奉る様なお役に立て、もっともっと言うならば修行させて貰うて、力を受けてからね、力も受けん先にならあれが成就し、是が成就したらもう絶対それこそおかげの受け逃げになって、神様に言うた事、反故になる様な事になっちゃならん、嘘になる様な事になっちゃならん。どうも久富先生そう言う響きが。
 あんたの五つの願いの中に響きがある様な感じのと云うてまあー話した事でした。ね。繁雄さんにも申しました、金光様の御信心はね、成程そりゃぁそういう信心の家系と言う物は素晴らしい、私共でももうー家庭の事やら自分の事は、全然願わんと云う時代確かにあったそしておかげは頂いた、けれども愈本当にお役に立ちたいと云う神願と云うか、念願が立てられる様になったら、願はなければ居られなくなって来た、まず私が助かる事の為に、願はなければ居られなくなって来た。
 それは同じ願いであっても言うならば時点がそれ以前の願いの信心とは時点が違う、只我情我欲の為に願うのでなくてですね、本当に神の大願が成就する事の為に祈らなければ居られない事に段々なって来た、願はずでもおかげを頂くと云うそういう穏やかな信心から、もう一つ超えた所に私は金光様の御信心がある。三代金光様でもそれこそ願いに願いぬかれた、そして願い通り願い以上のおかげを頂かれた。
 そこでお礼の足りないお詫びばかりしておると、言う様なもう生き生きとした、もう兎に角金光様の信心は、最後の最後まで願いに徹し、又はお礼に徹しお詫びに徹しと云う様な所からです、私は今日思はして貰う事はね、此のお詫びに徹すると言う事等はね素晴らしい事ですよ。お詫びに徹しますとね、徹することになりますと問題が全然無くなるですね、その私はお詫びに徹したその後の心の状態を。
 私は今日は和賀心だと、今日は解って頂きたい。心からお詫びをさして貰うた、詫びて詫びて詫び抜かせて頂いた、神様は詫びれば許してやりたいのが親心と仰るその親心を以て、お許し下さったと云う実感がそのまま和賀心です。詫びたばってんまぁだお詫びが叶うとらんごたる、心に不安があったり心配があったり、人の事を例えば人がどうのこうのと云う、自分以外の方を目に付く間は、まだお詫びに徹したとは云へません、そこでならお詫びに徹すると言う事はね、改まって詫びる事だと言う事です。
 私が悪う御座いました、私が悪う御座いましたではいかんのだ、なら自分が悪う御座いましたと云う所に気づいたら、その悪う御座いましたを改まって、是からいっち致しませんと云う、お詫びを一札入れて、そして詫びる所にです、神様の言わばお許しを頂けたという、もうそれは何とも云い様のない程しの、許された喜びと言う物が心の中に一杯、それが和賀心なんです。だから私は今日は皆さんに云うのに、信心は見易い者じゃが氏子から難しうすると、こう三年五年の信心では、まだ迷い易い。
 だからその三年五年の信心では、迷い易いと云う間は、本な物じゃない、迷わんで一心に久富さんじゃないけれども、神の実体が解らせて貰うて、神様と云うお方はこういうお方だ、詫びれば許して下さる神様だと。どう言う罪業の身でありましても、どう言う例えば自分は悪い事をしたと云う意識で苦しんでおる人でもね、詫びれば許して下さる神様だと、それが神様の実体が解った。
 其処でんならどうも済みませんでしたと云う様な詫ではなくて、自分が悪いと云うてその悪かったと思うて解ったと事を、改まって其処を切り離して、そして詫びる時に生まれるのが和賀心である。だから信心が見易いと言う事はです、例えば願いには願いに徹して、神様が聞き届けて下さる、それが受ける心が和賀心、詫に徹する神様が許して下さった、と云う実感が自分の中に頂けた時に、ああ是で許されたと云う、言うならば喜びと清々しいまでの自分の心の状態、所謂和賀心である。
 其処からが信心は私は見易うなって来るんだと思うですね。詫びれば許してやりたいのが親心それが神の実態。その実体がそう言う方だと、解った所からですね、詫びるね、またその詫びて許された、心の状態で、御礼を申し上げると同時にお願いも、又愈々させて貰う何故かと云うと、五つの願いが成就する事の為に願うのだ。お互いどうでも一つ信心が見易い物になる所迄信心を進めて行きたい、私はその事を例えば自動車の運転をする事は大変難しいでしょうねと。
 運転なさる方に聞いたらそれがいっちょん難しうなかですよ気安すかですよ、と云はれるに違いはありません、けれどもんなら運転をし切らん者に対しては大変難しい事です。稽古しなければ乗れるだんの事っちゃない運転は出来ませんね、だから三年五年の信心では、まだ迷い易いと迷はんで済むまでの、信心の稽古をさして頂いて、確かに信心は見易いものだなーと、その稽古をしょうとしない、運転免許を取ろうともしない、実地も学科の方が、やっぱりチャンとね勉強してね。
 技術の方を勉強して、そして試験を受けて、運転免許状を貰う事なったら、自動車の運転と言う物は、難しい物ではない。稽古をする気にならにゃいかん、ね。お花の稽古を例えばする人達ね、まぁそうですね、まあ半年も通うと一通りお生花なら、お生花を活けあげられる様になる、愈免状でも貰う様になったら、もうそれこそ、あれも花に見え、是も花の材料に、みんなが花の材料に見え出して来る程しになって来る、自分で木取りが出来る様になる、其処に花を活ける楽しさがある。
 昨日一時の御祈念の後の時でした、丁度原昌一郎さん達が夫婦連れでお参りして来た、お参りして来る途端、私が頂いたのは桃の花とも、梅の花ともつかん、ようと解らなかったけれどもその花を、こうーまあーお生花にしたら、二杯分位ある位に紙に包んで、あのうお花の稽古なんかに行く人が、紙に包んで持って行くでしょうああ云う恰好で、持って入る所を頂いたんです、ほいで此処にお届けに来ましたからその事を、話した事ですけど、今ねあんたどん良子さんが入って来る途端に頂いた。
 だから良子さんこう云うお知らせを頂いたよね。例えばそういう枝をおし折って来たとか、花を切って来ただけではいかん、それはいきなりさんぱち、花瓶に差しただけじゃその良さはない、それの例えば切らにゃん所は、切り曲げにゃん所は曲げる真っ直ぐせにゃん所は、真っ直ぐすると言う様にして、そして活け道、活け方を覚えさして貰うて、木取りが出来る様になり、そしてその打ち上げさして貰う様になったら、自分でも見とれるごたる花も活け上げられる様に段々なれるのだ。
 あんた方夫婦は今丁度ね、花の材料ば頂いとる様なもんだからね、云うならば花の材料と云う事は心の使い方と云うても良いだろう、心の使い方の名人になる事なんだ信心とは、ね。自由自在に美事に、有り難いと云う答えを出して、行く心の使い方の稽古なんだ、花の材料を頂いとるのだから、本気で稽古をせねばいけんなと私が申しました、実はそれ今朝から主人と話し合ってから、今朝から朝の御祈念にお参りしょうと、云って話し合ったんです。所が自動車がどうしても起こらずに、出来ませんでしたから。
 今日昼参って来ましたと云う、成程花の稽古をしよと思っとるね、だからならそれを稽古をして覚えたら後は見易いだけでなく楽しいのですね、信心もそうです、自分の心の使い方と言う物をです、本気でね稽古をさせて頂かなけゃ駄目、只参っとります拝んどりますじゃ、三年五年十年たったっちゃ迷い易い。ね。本気で稽古をさせて頂く所からです、美事な花を活け上げる事が出来る。
 自分も見惚れる様な人が見ても又素晴らしい事になって来るね、そう言う意味で信心は見易い物だと云う風に仰っておられると思うんです、それを覚えたら見易いのです、其処ん所を今日は、私は詫に徹して見る、それには自分自身が本当に解って来る、まあ本当にもう家内が悪い主人が悪いと思いよったけれども、やっぱ本当、自分の様な者をね。自分の様な者を家内と云うてきて貰うた、主人と立てて来て呉れたと云うですね、もう今まで仇の様に思うておった人でも、そう言う風に見えて来るです。
 詫に徹して許されたら、それがお詫びをして許された姿です。所謂何を見ても、お花の材料に例えばなる様にです、何を見てもどう言う物を見てもですね、お礼の対照にしかならんです、お詫びをして許されたら、だから本当に自分がね、詫びると言う事は、どう言う事かと云うと、本当に自分が悪かったとか、此処が本当に自分が悪かったとか、此処が自分が本当に相済まんと云う所があったら、それをね改まって詫びる事なんだね、それを神様が受けて下さる、受けて下さった時に。
 私共の心の中に生まれるのが和賀心だと言う事を聞いて頂いた。ね。お詫びも自分の心のはぁ是が和賀心かと解らして貰える答えが出て来る様なね、お詫びでなからねばね、お詫びにはなりませんね、詫びると言う事は、詫に徹すると言う事は、改まって詫びると言う事、その向こうに和賀心の状態があるのです。そこから成程喜んで和賀心が祀れれる様なおかげも頂かれる訳ですね。
   どうぞ。